一月3連休は・・・その1 宮城県へ 奥松島 ~ 塩釜 ~七ヶ浜
成人の日が必ず15日だった頃は15日生まれのダディの誕生日はいつも祝日ですからお休みで特別の日でした・・・・。
昨今は祝日も土日に連動して決まります・・・・。
15日まで待たずして13日日曜日にお隣の県まで二人で出かけました。
宮城県は泊りがけで行くという観念が昔はなかったのですが、最近はホテルも信頼のおける会員制で
泊まれるところを利用しますので気軽に泊まろうということになります。
さて、季節を同じうして2年前には(震災の一か月前に)、東松島市に<焼き牡蠣>を食べに行きました。
おいしい牡蠣はもちろんのこと・・・美しい海、点在する松島、養殖の棚が海に浮かんでいる奥松島の宮戸島。
その日もお天気が非常によく、風も冷たくなく、ホタテの直販所にも寄ったりして来ました。
<奥松島>という海苔があるのですが、今でも我が家では必ず買っています。
そんなことがあり、震災後あそこはどうなったのかしらといつも心配していましたので、今回はそこへもう一回行ってみることにしました。
山形を出発する時は雪が降りあまり良いお天気ではありませんでしたが・・・
宮城県へ入るとほとんど雪はなく、晴天です。
さすが海岸が近いからか風が強い。
東北自動車道を下り、富谷JCTより利府中JCTをへて間もなく松島へ降りて、松島の観光地の中を北上しました。
五大堂あたりの街中にはたくさんの観光客が見えましたので、どこかほっとしました。
しかし、車が進むとほどなく、大きな道路の脇には信じられないような光景が残っています。
まもなく2年になろうとしていますが、当時のままの破壊された建物が続きます。
TVなどで見ていますが、実際このように目の当たりに見れば、想像を絶するような被害の跡です。
私たちが前に来た浜辺は海に向かってつきあたり、浜辺を左手に見ながら宮戸島にいくのです。
変わりない砂浜が広がっているのですが、堤防はシートや土嚢が積み重ねられています。
一台2台と車が来て、浜辺に向かってしばらく立ち止まる人々が何組かありました。
右手の平地には、がれきがうず高く積まれていたり、草原のようになった原っぱが見えますが、よく見れば土台だけだあったり、たまり水が沼のようになっっています。
海岸沿いを走って月浜海水浴場まで行きましたが、すべて流されたというように見わたす限りの風景です。
仮設住宅も数か所あります。
その後焼き牡蠣を食べた嵯峨峡遊覧船の波止場に戻りました。
橋が工事中で新しく作り直ししているようでした。
浜辺には焼き牡蠣の待ち時間に寄りかかった防波堤が無残な姿で転がっていました。
なんにも跡形もなくなったのですね。
風が寒かったけれど、去りがたい気持ちでした。
鶴が一羽飛んでいきました。
その後塩釜へと向かいました。
途中のお墓がほとんど倒れたまま見えました。
塩釜の小売り市場を見ました。
ダディが仙台でお勤めしていた時に縁あって七ヶ浜役場に来たことがありましたので、近くまで寄って七ヶ浜周辺の様子も見てみようという事になりました。
役場は高台にあります。
大規模な津波にのまれた残跡が膨大な規模で残っていました。
高台には津波を免れた家々がぎっしりと立ち並び、そのわずか下の平地は生々しい傷跡がすべてを襲ったことを見せつけているようです。
平地の中にも残った家もあり、また隣の家はだれも住めずに残骸となってしまったのは怖いような事実なのです。
夕日が落ちようとしています。
除塩という旗が見えます。
何とも形容しがたい思いが胸に迫ります。
津波がくれば、こういうことになるのかと、自然の力の大きさを知らしめさせられます。
普通に暮らしていることと、普通に暮らせなくなってしまったことの違いをまざまざと見せつけられたような現状です。
2年もの長い月日が経っても元に戻れない、帰らない、人々の気持ちや暮らしを思うと本当に先が見えないことだと心が痛みました。
若林区、名取のほうも見たいと思いましたが、すでにあたりはとっぷりと暮れてしまいました。
昨今は祝日も土日に連動して決まります・・・・。
15日まで待たずして13日日曜日にお隣の県まで二人で出かけました。
宮城県は泊りがけで行くという観念が昔はなかったのですが、最近はホテルも信頼のおける会員制で
泊まれるところを利用しますので気軽に泊まろうということになります。
さて、季節を同じうして2年前には(震災の一か月前に)、東松島市に<焼き牡蠣>を食べに行きました。
おいしい牡蠣はもちろんのこと・・・美しい海、点在する松島、養殖の棚が海に浮かんでいる奥松島の宮戸島。
その日もお天気が非常によく、風も冷たくなく、ホタテの直販所にも寄ったりして来ました。
<奥松島>という海苔があるのですが、今でも我が家では必ず買っています。
そんなことがあり、震災後あそこはどうなったのかしらといつも心配していましたので、今回はそこへもう一回行ってみることにしました。
山形を出発する時は雪が降りあまり良いお天気ではありませんでしたが・・・
宮城県へ入るとほとんど雪はなく、晴天です。
さすが海岸が近いからか風が強い。
東北自動車道を下り、富谷JCTより利府中JCTをへて間もなく松島へ降りて、松島の観光地の中を北上しました。
五大堂あたりの街中にはたくさんの観光客が見えましたので、どこかほっとしました。
しかし、車が進むとほどなく、大きな道路の脇には信じられないような光景が残っています。
まもなく2年になろうとしていますが、当時のままの破壊された建物が続きます。
TVなどで見ていますが、実際このように目の当たりに見れば、想像を絶するような被害の跡です。
私たちが前に来た浜辺は海に向かってつきあたり、浜辺を左手に見ながら宮戸島にいくのです。
変わりない砂浜が広がっているのですが、堤防はシートや土嚢が積み重ねられています。
一台2台と車が来て、浜辺に向かってしばらく立ち止まる人々が何組かありました。
右手の平地には、がれきがうず高く積まれていたり、草原のようになった原っぱが見えますが、よく見れば土台だけだあったり、たまり水が沼のようになっっています。
海岸沿いを走って月浜海水浴場まで行きましたが、すべて流されたというように見わたす限りの風景です。
仮設住宅も数か所あります。
その後焼き牡蠣を食べた嵯峨峡遊覧船の波止場に戻りました。
橋が工事中で新しく作り直ししているようでした。
浜辺には焼き牡蠣の待ち時間に寄りかかった防波堤が無残な姿で転がっていました。
なんにも跡形もなくなったのですね。
風が寒かったけれど、去りがたい気持ちでした。
鶴が一羽飛んでいきました。
その後塩釜へと向かいました。
途中のお墓がほとんど倒れたまま見えました。
塩釜の小売り市場を見ました。
ダディが仙台でお勤めしていた時に縁あって七ヶ浜役場に来たことがありましたので、近くまで寄って七ヶ浜周辺の様子も見てみようという事になりました。
役場は高台にあります。
大規模な津波にのまれた残跡が膨大な規模で残っていました。
高台には津波を免れた家々がぎっしりと立ち並び、そのわずか下の平地は生々しい傷跡がすべてを襲ったことを見せつけているようです。
平地の中にも残った家もあり、また隣の家はだれも住めずに残骸となってしまったのは怖いような事実なのです。
夕日が落ちようとしています。
除塩という旗が見えます。
何とも形容しがたい思いが胸に迫ります。
津波がくれば、こういうことになるのかと、自然の力の大きさを知らしめさせられます。
普通に暮らしていることと、普通に暮らせなくなってしまったことの違いをまざまざと見せつけられたような現状です。
2年もの長い月日が経っても元に戻れない、帰らない、人々の気持ちや暮らしを思うと本当に先が見えないことだと心が痛みました。
若林区、名取のほうも見たいと思いましたが、すでにあたりはとっぷりと暮れてしまいました。
この記事へのコメント
祝日は変更しない方がいいと思います。
宮城県に旅行なさったんですね。
繁華街は賑やいで来ましたが、海岸沿いは まだまだです。
牡鹿半島はもっと凄い状態ですが住民は少しずつ
活気が出て来ています。
もう少し復興したら牡鹿半島の方にもどうぞ
いろんな出会いは有ったでしょうが、良いお誕生日のお祝いが
出来て何よりでしたネ。
ダディさんお誕生日おめでとうございます。
ハッピーマンデーとかって祝日が月曜日に移動して、この日ってなんの日だっけと思うことも。意味あって制定されたはずですよねぇ。
べべコママさん
大変お返事が遅れました。
ありがとうございます
実際に震災の被害。と復興の実態を見ますと、進んでいる部分とそのまま置き去りにされた部分とのギャップに心が痛くなるような状態でした。
なんのお手伝いもしていないという気持ちと今後の政策が絶対実行されるように国民が監視し、仕向けて行かなければならないという気持ちがわきました。
hiromuさん牡鹿半島は沢山の思い出もありますので、近いうちにぜひ行きたいと思います。